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2011年 09月 24日

23日の宮城県女川町

※24日に書きました

宿泊所の「登米(とめ)市」を6時出発、石巻市の救済センター経由、
現地の「女川町針浜」に着いたのは8時半位だったか?
男鹿半島の付け根「万石浦(まんごううら)」という入口の小さな湾に面した集落です。
東日本大震災の時の津波の被害も比較的少なく(帰って来て地図を見たらば「成る程」という形をしていました)
養殖筏も浮かぶ静かな湾なのですが、半島自体が1.2m沈下しているらしく。
この防波堤も本来海面からもっと高い位置にあり、テトラポットも満潮時でももっと見えていたそう。
21日の台風でこの防波堤が見えなくなったそうです(山からの水と海水とで)。
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この右側のお家のお手伝い。
こう見るととてものどかで、お昼をこの防波堤の上で食べながら眠ってしまいそうになったのですが。
母屋の他に漁業、農業の道具を入れる納屋?を持つ、築100年以上の古い大きなお家が多し。
21日夜は避難する間も無く一面の水に囲まれ、2階で「死を覚悟した」と話されてました。
家の中から濡れた家財を出そうにも、一面田んぼの土のようなネチョっとした泥水に覆われ
(場所により30cmも積もり、どんどん団子状に大きくなり重いです。嵌ると長靴が脱げます。)
まず置く所を確保する事から、でした。

水を含んだ畳が非常に重たく、持ち上げるとグズグズに崩れてしまったり。
お昼過ぎに山形の大学生がバスで駆けつけてくれるまで、
この畳を3人〜4人掛かりで一枚づつ、3枚程外へ出しては一休み、でした。
家の中も(床板が外れてたり、崩れた畳の藁?で滑りやすい)外も足元が不安定なので、
74歳の父には危険過ぎる作業でしたが、
もうこの状態を目の前にしては何もしない訳には行かず、手も足りず。
電気はダメでしたが、水が出るのは有難かったです。
乾くと匂うのか?ちょっと手を休めると泥が付いた所にハエがすぐ飛んで来て鬱陶しいのです。

あっちの家の前の泥かきが終わった!じゃあ荷物出しに行こう!
こっちの家の荷物の振り分けが終わった!じゃあゴミと畳を出そう!と
5〜6人で入れ替わり立ち代わり。
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3時には作業を終え(半端なんですけど、疲れていて「まだ出来ます!」とは誰も言えない状態です)
「日和山公園」経由で帰路に。
思わぬ所でライブ。さださんが「がんばれ〜♪」と歌ってらっしゃいました。
向こうに女川の町。
横浜でいうと「港の見える丘公園」のような感じの場所なのですが、見渡す限り瓦礫と空き地と崩れた建物と。
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公園からの坂を下った途端にガラッと景色が一辺します。
「ここまで波が来た」「ここから上は来なかった」が顕著に分かります。
海水の上の石油が燃えた跡で校舎の上の方が黒いです。
これで弾痕があったりしたら銃撃戦や爆撃の跡のようです。
門脇小学校と直ぐ横の墓地。この後ろがさっき居た日和山。
ここが津波の最終到達点で瓦礫も酷かったそうで。
墓石が見えるこの状態にするまでに、1500人のボランティアで8月一杯掛かったそうです。
お彼岸で手向けられた仏花だけに色がある感じでした。

映像や検証CGで津波がどんなものだか見ていた訳ですが、
この見渡す限りの所に「水が押し寄せて来た」という規模がまだ分かりません。
実際を目にしても範囲が大き過ぎて。
ただこの女川町の10人に1人の方が死者行方不明だと言う事は「そうなんだ」と感じられました。

夕食を取ってお風呂(道の駅に併設の温泉を利用)に入って宿泊所に戻ったのが9時。
日焼けの火照りと疲れでキュっと10時には寝てました。

朝は「人が少ないので24日も午前中だけでもお願いしたい」との話しでしたが、
台風から時間が経つにつれ、駆けつける人が増えて来たようで。
すいません。私達は帰ります。
宿泊所も今夜は満員です。若い人が多くて頼もしい限りです。

by kaba-bag | 2011-09-24 22:57


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